模範の学習
-けっきょく、共同体なきところに模範はない、と結論してもよさそうだな。
というよりもむしろ、大人と子供と言うべきだろう。成熟したものとして共同体の内にいる大人と、未熟な者としてまだ共同体の外にいる子共。そして、外から内へと向かう境界においてこそ、模範は生まれてくる。
つまり、ときどき調子をはずすがおおむね大人の反応の仕方を身につけていく子供がいるから、その誤解を正して修正し教育する場面が生じ、そこで模範的な力が動くことになる。
そうして、大人たちの一致団結した気紛れに子供たちは同調していかねばならず、どうしても同調できない場合には切り捨てられる。
-理不尽だね。
いや、まさに理不尽なのだ。理を尽くしても、模範の解釈は固定されないのだから。
-もし、大人たちの気紛れが一致団結しなかったらどうなるのかな。
模範は崩壊するだろうね。
-なんだか、たくさんのランダム発生装置がどうした偶然かシンクロしてるようなイメージだな。模範といっても、ずいぶん危ういというか。
気紛れのシンクロはまさに偶然の恩寵というしかないのだが、まあ、われわれがだいたい似たような生物で、本能的に反応してもおおむね一致するということと、それから、大人たちもかつては子供として鋳型にはめこまれてきたから、ということだろう。
-だろうね。だけど、中には足並みのそろえられない異端の大人もいる。そして、異端の度合いがはなはなだしくなると…
狂気の烙印を押される。