意味はない、しかし相貌はある
われわれはあるものを犬の相貌のもとに見る。
そこで、まだ「犬」という語を学んでおらず、犬の概念を所有していない子どもに、「犬」という語の意味をおしえようとして、われわれが見ている犬の相貌にその子も出会わせようとする。
だが、それは無駄なことでしかない。
犬の概念を学んでいないその子どもには、まだ犬の相貌が立ち現れていないのである。
なんらかの仕方で「犬」という語の使い方を教え、犬の概念を学ばせる。そうして初めて、その子どもに犬の概念が立ち現れてくる。
ひとつのアナロジーを語ろう。使い方を知らない複雑な機械がある。(略)私にとっては初めてパソコンに触れた時などが、そうだった。
ところが、使い方を覚え使いこないていくうちに、その機械の相貌が変わってくる。
よそよししかったものが、なじんだ感じを帯びるようになり、全体が有機的な連関を持った統一的なものに見えてくる。
概念を所有するとは、それゆえ言葉をしようするとは、パソコンを使いこなすのと同様、ある技術を身につけることである。
あいまいな言い方になってしまうが、相貌とはこうした技術知(Know-how)が対象に投影されたものにほかならない。同様に、犬の相貌とは、「犬」という語をいかに使用すべきかの知識が対象に投影されたものだといえるだろう。
どの対象に「犬」という語を適用してよいのか、「犬」という語を含んだ発話によってどういう反応を聞き手に引き起こせると期待してよいのか、そうした言語的な技術知が対象に投影され、その結果その対象は犬の相貌のもとに現れる。
言葉を使う技術、それが世界の相貌を成立させるのである。
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以前、犬は犬であって、犬以上でも犬以下でもないと思ってました。
でも、知り合いに「犬派?猫派?」と言われ、疑問に思いました。
どうしてその二択なのだろうと、意味がわかりませんでした。動物はみんな好きなので「両方」と答えました。ちなみに、一緒にいた担当Iさんは「犬は以前追いかけられて、嫌い」と言ってました。
でも、時間が経つにつれ、プロフィールでも犬派猫派など項目があって不思議です。
ペンギン派があってもいいのに。
しかし今は、世界はどのような相貌で期待を込めて質問してるのかわかってきたようなきがします。世間に対し、経験値が足りないです…自分。