霊魂(もしくは電子)は実在しうるか
時間をみつけて、読みたかった本を読んでいる日々です。
そこで、衝撃的な内容にふれました。
以下本文
電子なしの理論も選択肢として可能であることを認めたい。
それは-私の考えでは-電子が実在しない世界を選ぶということである。
他方、われわれは電子ありの理論を選んだ。
それはすなわち、電子が実在する世界を選んだということなのである。
すると例えば、他の文化がもし現代において電子なしの理論を信じていたとするならば、彼らの住む世界には電子が実在せず、われわれの住む世界には電子が実在するということになる。
世界が違うのである。
今まで、神は無神論の立場で、電子は実験観測でおそらく実在するであろう。あってほしいという立場でした。
わからないけど、実在論の立場に向いてました。
人間の認識と独立の立場であると。
とある数に関する本で「数というのは、結果から見ればものの個数とか、長さなどに依存せずに、思惟の上だけで存在するものである」と。ありました。
ですので、楽観的希望的に考え、以下文にも「アプリオリに数がすべて存在していると認める立場は、言い方をかえれば、超越的な存在、たとえば宇宙を調和的に支配してくださってる神様の存在、を頭っから認めていて、われわれはそれを教わるだけである。学問とは習うものだという立場である。習うものだというのが語弊があるがあるならば、人間とは無関係に存在する理法をわれわれが徐々に知るのだという立場である。こういう立場も当然あるが、そういう理法、法則の実在を信じない人に向かっては説得力をもたない。数学は、信仰ではないから、信じない人に向かっても、その合理性を納得させねばならない。」と。
「自分が、数学的な超越的存在、法則を認めるか否か、換言すれば、われわれとは無関係に数学的真理が存在しているのだと考えるか、われわれ人間が数理を作りだしていると考えるかには関係なく、『定義する』という立場でもって議論せざるをえないのである。そしてこの立場では、その定義で万事うまくいくかの保証がないので矛盾を生じないよう気をくばらなければならない。」「数は自然の数理と無関係」
数をひきあいにだすのは、論議がずれてるかもしれません…。
いまだ、いきをひそめて待っているものを、みつけてゆく…、そうでなければ独我論におちいってしまいそうになったからです。
以下 霊魂(あるいは電子)が実在するか 注2 反実在論 の文にて
同様のことは、宗教的な場面ではふつうに起こっていると私は考えている。
ある人たちは神が実在する世界に住んでいる。
他方私は神が実在しない世界に住んでいる。
どちらかが正しいというのでもないし、どちらかが正しいはずなのだが本当のところは分からないでもない。
神が存在するのもしないのも、電子が実在するのもしないのも、それぞれにとって本当だと思うのである。
すとん、と。こころにおさまりました。
相対主義は器が大きいと思いました。
宇宙が収縮する気持ちになりました。
自分も相対主義を応援したいです。
しかし相対主義は文化や時代・他者に依存し、相対的な物事がなければ主張できない…沈黙してしまうような気がします。自身の主張はどこにあるのでしょう。だからといって、絶対主義には傾き難いです。悩ましいです。
この本に出会い、こころがゆらいでいます。