考える
問題にとらえられて、「ヘウレーカ」の呼び声に耳を澄ます。そのとき、ある観察はぜんぜんきみの心に飛び込んでこないけれど、この観察は敏感になったきみの琴線に触れる。かすかな音がする。いける。いけるかもしれない。
観察や論理は問題を解くときにかかせない素材だ。だけど、それを問題に合わせて、捨てたり、選びとったり、つなげたりしていかなくちゃいけない。「ヘウレーカ」の声を待ちながらそんな作業をつづけていく、それが「考える」ってことだ。
できあがった解答なんかを読むと、観察と論理的推論がきちんとつながっていて、いかにも「論理的に考えました」っていう雰囲気をかもしだしている。でも、それにだまされちゃいけない。できあがった解答というのは、たんに、考えた結果を論理的に再構成して表現したものにすぎない。
論理的な推論や計算は、それ自体は考えることじゃない。考えるというのは、そうした推論や計算、あるいはさまざまな観察を、問題解決のもとに取捨選択してうまくつなげることだ。だから、コンピューターがたとえばどれほど複雑な計算にすぐれていたとしても、たとえいまよりもはるかに推論ができるようになったとしても、何のためにそういうことをしているのかがないかぎり、これは考えているのではない。
もしコンピュータが、「なんでわたしはこんな計算をやっているのだろう」、なんて言い始めたら、そのときはコンピュータも考えてるってことになるかもしれない。
逆に、どれほど計算ができなくとも、どれほど推論が苦手でも、どれほど観察力に難があろうとも、問題に向けての緊張が失われないかぎり、ぼくは考えている。なんか、とても、けなげた。
コンピュータには、こういうけなげさって、ないよなあ。