可能性を開くことば
音声言語をもっている動物で、「敵が来た」とか「エサがある」といった文はもっていても、それを切り分けて新たな組み合わせを試すということができない場合には、可能性の世界は開けてこない。
彼らは敵が来たときに「テッキッキー」と言ったり、エサがあるときに「エッサッサー」と言ってたりするとことはしても、それはつまり、現実ベッタリで、可能性を開くことばの力はない。
逆に、音声言語や文字言語をもっていなくとも、現状を切り分け、さまざまな組み合わせを模索する手段になるようなものであれば、身振りでも、将棋の駒でも、はっぱでも、空き缶でも、なんだって「ことば」と言ってよいだろう。それらのことばは、発音言語や文字言語ほど自在に、そして多様にあやつることできないかもしれないけれど、それなりに可能性の言葉を開いてくる。
ことばがなければ可能性はない。
そういいたい。
この状況が全体丸ごと、ドカンと、なんの構造ももたずにあって、それに突き動かせれているのだったら、ただ現実ベッタリに反応しているだけだ。それをパーツに切り分けて、あれこれ組み換えてみるところに可能の世界が開ける。しかも、現物を動かすのではなく、現物の代わりになるもので箱庭的に試してみる。そんな可能性の世界でたわむれるには、どうしたってこどばがなければならない。
可能性がないところに否定は成り立たないじゃないか。
「この部屋にはパンダがいない」と言える者は、ただ、この部屋にパンダがいる可能性を掴んでいる者だけだ。パンダがいたっていいと思ってるひとだけが、「パンダがいない」って言える。
否定というのは、可能性と現実のギャップに生じる。だから、現実ベッタリで可能性の世界をもたないものには否定ということもない。すべては「あるがまま」。そして、ことばがないならば可能性ということもない。だから、ことばがないなら否定ということもない。
それで、現実ベッタリで可能性の世界がないならば、考えるということもない。
だから、ことばがなければ考えられない。