実践盲と模範盲
模範を自然的事実に還元しうるか否かという昔からある哲学問題。
実践描写を行動描写に還元、ないし翻訳することは不可能だと思うのである。
なるほど、実践描写が為される個々のできごとに対しては必ずなんらかの行動描写が可能であるだろう。
だが、その対応も個々の場面でのみであり、タイプとして、一般的に実践描写と行動描写が対応づけられるわけではない。
例えば「2+3にたして5という答えを与える」という実践描写に対応するのは、声に出して5と言ったり、紙や黒板に書いたり、片手を開いたり、五つのりんごを示したり(五本のバナナを示したり、五冊の本を示したり)等々、無数にさまざまなことで有りうる。
逆に、ひとつの行動描写、例えば「手を上げる」に対しても、「タクシーを止める」「挨拶をする」「発言を求める」等々の無数の実践描写が対応する。
それゆえ、実践描写と行動描写の間に一般的な翻訳関係をつけることは不可能と結論せざるをえない。
つまり、われわれは実践盲とともに野球を観戦し、語り合うことはできない…。