語の表情
われわれは「思考」という語によって文の”生命”を意味する。
それがなければ文は死んでしまい、たんなる一連の発声か書かれた模様にすぎなくなってしまうようなものを。
(中略)
記号がわれわれに与える印象が、言語使用においてなんの役割も果たしていないような言語、そのような印象という意味では理解ということも存在しないような言語、そういう言語もありうるだろう。
それらの記号は例えば書かれて伝えられ、そうしてわれらはわれわれの目にとまる。
(すなわち、ここで問題になるのは唯一の印象は記号のパターンである。)
その記号が命令であれば、われわれは規則や表を用いてその記号を行動に移す。
像の印象に類したものはそこには入り込まず、ひとはこの言葉で物語を書くこともない。
この場合、「記号はシステムの中でのみ生きている」と言えよう。
それは語がもっている意味の顔つき、つまり一言で言えば、それは語のアスペクト。
この点を明らかにするために、アスペクト論の基本的な論点を確認するところから再出発したい。