人文研アカデミー・レクチャー「ラカンを読む」
京都大学のHPの公開講座のコーナーで、きらりと目が光る。
「ジャック・ラカンが「読むべからざるもの」と位置づけた『エクリ』という論集を前にしても、私たちはやはりそれを「読む」ことしかできません。「読むべからざるもの」という定義は、それ自体ひとつの挑発と言えますが、ラカンはまた「日本人に分かってもらうことを私は期待しない」という発言も残しています。こうした挑発にも尻込みすることなく、『エクリ』を繙いてみましょう。
今回のレクチャーでは、ラカンが構造主義に最も接近していた時代を代表する、以下の2つのテクスト(原書)をとりあげます。
平成21年11月12・19・26日、12月3・10・17日(各木曜日) 午後6~8時」
そのようなわけで、11月12月、お昼は京都を巡り、夕方にラカンを学んできました。
フランス語がわからないので、そこで、まず、アウトです☆
立木康介先生が、翻訳してくださるのですが、分かる部分と、分からない部分があって、頭の中が必死です。
と、いいますか、半分も理解できなかったと思います。
自分の理解力のなさに、落ち込んでしまいます。
もっと知りたいのに…。どうして、こう、頭がまわらないのでしょう。
でも、今まで読んでいたラカンの一部がすこし、つかめたような気がしました。
「エクリ」とは、書かれたものという意味。
ラカンらしいタイトルを選んだと思いました。
エドガワ・アラン・ポーの「盗まれた手紙」をシューマL図で分析してました。
lettre=signifiant
ひとつのところにとどまらないsignifiant。
コンピューターの回転式メモリのように0と1を交代する働き。
なぜ0と1なのかは、signifiantの最小単位。お互いに異なる違う要素。
動いていないと生産されない。
現前不在。
立ち止まってしまうと見えなくなる。
主体たちの持った性格・性別にかかわらずsignifiantは決定する。
signifiantのつらなりにくっついてゆく。
主体がおもったりするのは二次的。
signifiantの移動が主体を決定している。
以前から疑問だったことを、講義が終わった後に先生にたずねました。
自分「signifiantは記号という意味なんですよね。音とか」
先生「そうですね」
自分「でも、フランス語ができる弟が言うには、フランス語には指し示す方向という意味もあると言うのです。記号と、どういう、つながりや関連があるのですか」
先生「指し示す方向。いいじゃないですか!」
先生の顔が、ぱああと、明るくなり、いきいきしました。
先生「signifiantはソシュールの矢印の先という意味でもあり、signifieという指し示すものという言葉があり、それは何もなくても、じりつして存在するもの。二つをあわせたのが、signe、記号という意味。」
「ラカンが言っているのは、signifiantだけのほうだね」
「面倒だから、記号と言っているんだよ」
と、ホワイトボードでわかりやすく説明してくださいました。
なるほど、謎だった、もやもやの霧が晴れました。
面倒な人だな、と思わずに、むしろ先生、輝いて教えてくださります。
素敵です。まぶしいです。先生。このような殿方、好きです。
最終日は懇親会がありました。
ワインにビール、おつまみが出ました。
出席された方々が、おのおの語ります。
先生に、自分の解釈があっているか、シューマL図について、たずねました。
すると、自分の読んでいた本と先生の解釈が違っていました。
先生「どんな本を読んでいるの?」
持ってきて正解です。ラカンをはじめて読んだ本をさしだしました。
自分「難しいです。」
先生「あー。この方ね。悪い本じゃないんだが。ちょっと難しいね。いいまわしが独特で」
さすが、先生。ラカン関連の本はもうご存知なんですね。
先生「この方は精神分析家ではないしね。斉藤環さんご存知?その方をウィキぺディアやアマゾンで調べてみるといいよ」
斉藤環さん。名前は知ってます。他の方を薦めて下さるなんて、何て親切でしょう。
先生「ラカンではないけど、文芸で書く事になりまして」
自分「拝見します。メモしていただけませんか」
『文芸』河出書房
2010年1月~ 「露出せよ、と現代文明は言う」
楽しみに、期待しております。