ことばでいいあらわせないもの
「たとえば、あっちの、向こうに立っているあのポプラの木、あれ何本か」
「三本」
「うん。それって、そこがどうなってるのかっていうことを、ふつうは伝えようとするわけだけど、それで視力もはかれる。<現れ>ってのは、こんなふうに、体の状態に関係してるから、<現れ>を言うことで、体の状態を問題にすることもできる」
―<現われ>が視点位置と身体状態の関数になっている
エプシロンは、そんなふうに言ってもいいと思った。
さっき「秩序」って言ってたものは、その関数のことだから、<もの>っていうのはその関数のことだといってもいい。
この茶碗は、身体の位置と内部状態が決まれば、どんなふうに見えるか決まる。
その決まり方、その秩序、つまりその関数が、<茶碗>にほかならない。
ほかには?ミューの声が聞こえた気がした。
「こんなのあるよ」
「絵本か?絵本の絵だけど…」
「ふふふ。森の絵だけど、森じゃないの」
「森じゃないって、…森じゃねえか」
「象とか、いる。馬も」
「象。森に?馬って、どこによ」
「ここ」
木立のある部分が、象の耳をかたどり、枝と枝のすきまが鼻になって伸びている。そこに、象の頭が浮かび出た。
「隠し絵」とか「だまし絵」とかいうやつだった。
「えっとね、だから、見え方っていうのはみる位置と体の状態だけじゃなくても、変わるって事、だよね」
「<意味>…かな。意味。違う意味でみえるようになる。森っていう意味しかなかった絵が、象の頭や馬って言う意味で現れる。そういう別の意味に反転する」
「それって、見え方が意味の関数にもなってるって、ことだよね」
「つまり、現われは見る位置と体の状態と、それから意味の関数になってるってことだ。それで、茶碗とかの<もの>を、見る位置と体の状態から現われへの関数として捉えることができるとすれば、<もの>ってのはけっきょく、意味のところを固定して考えた関数だってことか」
「エプちゃん、ごめん。やっぱ分からなかった」
「茶碗とかテーブルとか木とかの<もの>っていうのは、茶碗なら茶碗、木なら木っていう意味が一応定まって固定されてるから、だからそんあふうに見えるってことさ」
「意味が定まってなかったら、どうなるの?」
「どうなるんだろうね。さっぱり分かんねえな。さっきのこれ、この森の絵だってさ<森>っていう意味を与えなかったらただの抽象画になっちまうだろ。意味がころころかわったり、何の意味も与えられないんだったら、このテーブルの上も、この部屋も、ただの抽象的な何かかなのかね。それと、…とにかく、ボーゼンとするしかない何か、だよな。もう、<何か>なんていう意味もないだろうし」
「ああ、そうか。…そうだよな。そういう意味では、<もの>としては同じ茶碗を見てても、これずっと使ってるミューと、はじめて見た人とじゃ、違って見えるんだろうな」
「こっちのが、ぼくの。そっちはお客さん用」
「おんなじじゃん」
「ちょっと、ちがうの」
「そういやあ、隣町との境あたりにある何本かの木のうち、ミューはどれか名前つけてただろ」
「ポンちゃん」
「ポンちゃんはほかの木となんか違うわけね」
「うん」
「そういうの考えると、なんだかミューとは違う世界に生きてる気さえしてきたな」
実際エプシロンは妙な気分になっていた。
おんなじものをみてるつもりでも、ずいぶん違って見えている。
その鍵は、<意味>ということにある。
意味ということをいちばん反映しているのはことばだろう。
どんなことばで世界を見ているのか。
それによって見え方が、極端な場合にはアヒルからウサギへの反転図形のように、反転する。
「でも、ことばってさ、たりないよね」
「たりない?」
「たりなくない?」
「だって、森に行って、森のぜんぶを見てるわけじゃないでしょ。ぜんぶは、ことばにできないもの」